平常心是道
平常心是れ道
『馬祖語録』、『無門関』巻十九、他
〔馬祖語録〕
示衆云、道不用脩、但莫汚染。何爲汚染。但有生死心、造作趨向、皆是汚染。若欲直會其道、平常心是道。
示衆云、道不用脩、但莫汚染。何爲汚染。但有生死心、造作趨向、皆是汚染。若欲直會其道、平常心是道。
衆に示して云く、「道は修するを用いず、但だ汚染する莫れ。何をか汚染と為す。但だ生死の心有り、造作し趨向す、皆是れ汚染なり。若し直に其の道を会せんと欲せば、平常心是れ道」。
- 平常心 … 古くより「ビョウジョウシン」と読み慣わす。「ヘイジョウシン」とは読まない。
- 『新版 禅学大辞典』には、「平生の喫茶喫飯がすべて道と一体になり、さとりそのものであること。平常心とは行住坐臥の日常生活のことで、この四威儀こそ真実の禅のありようとする立場。馬祖道一によってはじめて言われ、中唐以後の禅思想を貫く根本命題となった」とある。【平常心是道】
- 入矢義高監修/古賀英彦編著『禅語辞典』には、「ふだんの当たりまえな心こそが道である」とある。【平常心是道】
- 柴山全慶編『禅林句集』には、「日常のあるがままそのままの心が道である。趙州、南泉に問う、『如何なるか是れ道。』泉云く、『平常心是れ道。』」とある。【平常心是道】
- 『禅語字彙』には、「南泉の語。道は近きにあり、之を遠きに求むるは凡夫なり、中庸に云く、天之命之を性と云ひ、性に率ふ之を道と謂ふ。儒説は且らく措て問はず、天地に一貫して生滅變遷に渉らざる道體は、元來人々具足して平常行ひ居れり、然れども情識思量を以ては、平常の的意を知る能はず、須らく是れ道に成り切て宗旨を知るべき也」とある。【平常心是道】
- 芳賀幸四郎『新版一行物』には、「……この造作にわたらぬなんともない心が、そのまま人の道である。寒ければ衣を重ね、腹がへったら飯を食い、くたびれたら寝る。この平常心のほかに道はない、道はしかつめらしいものでも高遠なものでもない。(中略)道を行ずることは、さして難事ではないともいえる。しかし実はむずかしい。なぜむずかしいかというと、こざかしい思慮分別を捨て、しかつめらしい規範の意識も通りぬけて、無造作ななんともない心を真にわがものとすることが難中の難だからである」とある。【平常心是道】
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